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2007.12.20

先日、帰りの電車の中で考えたこと

 結局のところ、俺は逃避のために本を読んでいるのだ。

「逃避」などと言うと軟弱な話に聞こえるが、これは決して現実から逃げ出してしまって帰ってこないという意味では無い。
 日常生活で背負い込んでいる立場や責任を離れ、その重みを降ろして力を抜く時間をとること、そうして再び翌日から(あるいは数十分~数時間後から)全力で日常の生活に取り組むための気力を取り戻すことを言っているのだ。

 自覚の有無に関らず、こうした「逃避」の方法は、誰でも必ずあるに違いない。
 それは読書とは限らない。あるいはスポーツ観戦(人によってはプレイする側の場合も)かもしれないし、映画やテレビかもしれない。
 音楽を聞くこと、友達と話をすること、たまに贅沢して美味しいものを食べること、酒を飲むことや風呂に入ること。
 人によっては家族の笑顔を見ることだったり、単に空想にふけることだったりするかもしれない。
 だがいずれにせよ、誰もがしばしの間、日ごろの憂さを忘れるための逃避手段を持っているはずだ。

 こうした逃避手段を本当に持っていない人間は、よほど気楽でふぬけた生活を送っているのだろう。
 でなければ、とっくに日々のストレスに押しつぶされてしまっている。

 自分の場合、そうした手段の重要な一つが読書なのだ。

 だから自分は本を読む時に、実生活で酷使している以外の部分で負荷がかかっても、あまり気にならない。
 少しばかり小難しい学術書を読んでも、そこで酷使される「心の部分」は、日常生活で酷使される「部分」とは別の場所になる。
 ちょうどデスクワークで目や肩を酷使したあと、景色のいいところを散策して歩くのと同じだ。多少、足が疲れても、今までこっていた部分はだいぶほぐれてくれる。
 そうなれば再び机に向かおうという気分にもなれるというものだ。

 だがこの時、実生活で感じるのと同じ種類の負荷を感じてしまうと、途端に本を読み進めるのがつらくなる。
 本の内容が必ずしも実生活に似ていなくとも、そこで感じる「負荷」を同じ部分で感じた途端、どんなに面白い本であっても読むペースががくっと落ちてしまうのだ。

 ……いや、以前から「駄作でもないしつまらなくもないんだけど、どうしても途中で挫折しがちになる本があるのは何でだろう」と考えていて、ようやく理由が思いついたのがこれ。
 少々読みづらいのはご容赦を。

 ちなみに、普通は「息抜き」とか「気分転換」とか言われるようなことをあえて「逃避」と表現したのは、J.R.R.トールキンの『妖精物語の国へ』をふまえてのこと。
 最初に読んだ時はファンタジーを「逃避文学」呼ばわりされたことへの反論なだけかと思っていたんだけど、今になって見るとたしかに「逃避」って表現には適切なひびきもあるような気がしてきた。

 トールキンが立ち向かわなきゃならなかった現実ってのは「第一次世界大戦の最前線」という、およそ想像を絶する過酷な代物だったわけで、仕切りなおす時間の必要性は本当に切実だったんだろうな。

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