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2004.03.23

死んだ気になって生きること

 2月29日の記事のタイトルは、『葉隠』のあまりにも有名な一文「武士道と云は、死ぬ事と見付けたり」をふまえたものだ。
 前々からこの一語だけが有名で、神風特攻的な死に急ぎを奨励する本のように言われているのを疑問に思っていたのだが、新渡戸稲造『武士道』を読んだのをきっかけに手を出してみることにした。
 ……といっても、その分量に恐れをなして原書を読むのは早々にあきらめ、講談社学術文庫の小池喜明『葉隠 武士と「奉公」』を買ってきた。

 主君に張り付いて身辺の用を承る「御側」の職にあった山本常朝の談話を、やはり主君の秘書官役であった田代陣基が記録したのが『葉隠』の中核である。
 主君に対する没我的忠誠論──「忍恋(しのぶこい)」に例えて語られる、相手に知られず、報われずとも一途に影ながら奉仕する態度──なども、あくまで「御側」という特別な立場の影響が強い、というのが著者の見解らしい。

 そもそも、あの「死ぬ事と見付けたり」で始まる一文は、
「毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成りて居る時は、武道に自由を得、一生落度無く家職を仕課すべき也。」
 ──朝夕、死ぬ覚悟で暮らしていけば、武道に通じ一生落度無く責任を果たせる──と結ばれているのである。
 戦場で死ぬのはその場限りのことであり、日々の奉公を決死の覚悟で務め続けることにこそ誇りを持つのが「奉公人」山本常朝の態度なのだ。

 もちろん現代人である自分にはついて行けないような箇所も多いのだが、少なくとも、自分の経歴を顧みて「古武士の代表」みたいに世間に言われることが気恥ずかしいともらしている山本常朝は、以前思っていたほど反感を持つような人物ではなかった。

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